设想只是为了都雅?那有啥用呢?
约稿。
话说,艺术品有什么用呢?
您会答:看呗!——嗯,也许还能炫个富,炫个品尝啥的。要不,挂个墙,否则墙上就太空啦!
那么想,也没错。
欧洲的艺术品,雕塑最后用来粉饰建筑和摆广场,壁画用来粉饰神殿、教堂或别墅。肖像画用来当照片留纪念。光景画用来粉饰家里。
比力闹心的是,因为炫富的需求,许多玩意,中看不顶用。
就好比,家具明摆着是要用的吧?但欧洲人折腾起来,就不管掉臂了。
以前尼德兰人用大型实木家具,填塞墙面,以资粉饰。北方人很其实,家具是夯实的木头,外加树木、白菜、藤萝等雕塑;在南欧意大利和法国人而言,尼德兰和德国人都属于土鳖的北方人、蛮族后嗣,那法子也很穷酸且农人气,但到了文艺复兴前后,细想来却不无事理。
15世纪时,法国贵族圈样样都爱学丰裕的意大利人:当日欧洲五大城市,巴黎算一个,意大利那边罗马、佛罗伦萨、威尼斯、米兰,独占了四个,潮水所在,人人都爱学。法国人学意大利人用胡桃木造家具,偶尔也用杉木;法国人学意大利人四处雕琢,大到柱子,小到桌腿儿;那时意大利人注释艺复兴,创造力漫溢,看什么都想雕一雕;法国人依样画葫芦,也把家具外表上刻出美女、狮子、海豚、叶子、藤萝,招致家里家具连起来能够开个动物园。当然,免不了还要雕琢人物,又偏都是英雄人物,看往边幅堂堂,满家里都是柏拉图,但晚上睡觉时难免吓人。
至于那些镂金雕银的餐具、花里胡哨的桌椅,看着很酷,实过起日子来,很做妖。
20世纪世界艺术设想的一个大改变,也在于此:世纪初兴过一阵粉饰艺术(ArtDeco)之后,科技开展了,各人兴趣也变了;1930年代以后,日常用品的艺术设想,都简洁明快,尽量清洁。当然,像20世纪中期美国许多机械钢铁审美的弄法,就又过犹不及了。
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说到底,连芬兰人都晓得:艺术品与科技都能够以报酬本嘛!
日本也是。
一种典型的日式兴趣,是乐烧。日本茶圣千利休有过一个助手长次郎——那位先生有福建血统——他一家的祖业,是做低温施釉陶器。可能在1581年,即长次郎六十五岁上,他起头测验考试做一种工具:用加茂川的黑石为原料,高温到一千度来烧釉,成器朴实浓黑。
能不克不及用那手法呢?
长次郎从修建聚乐第的处所,挖出了些土壤,起头烧造。他不消辘轳拉坯,而用手捏刀削,不加绘彩。烧出来的茶碗,红色的纯红,黑色的纯黑。妙在是手造,固然其实不光滑规整,但姿势古拙天然。
佐藤大(OkiSato),哲品家居设想参谋,nendo工做室开创人。
Nendo的意思,是黏土。
那可能是他所有设想的风气:朴实、大方、温和,不加润色,不工雕琢,言简意远。在《卵石》系列里,他用高骨瓷与硅胶;在《鸟喊》系列中的细铁与树脂,《灯谜》系列里的纯铁。在《蓬叶》系列里,他用高骨瓷+原木+不锈钢+硅胶+铁。
那位先生,寡所周知,日今年轻一代的卓著设想师。设想师的工做不是造造奇形怪状的工具,也不是简单地让物体看起来更有型。所谓设想,素质上就是为处理问题觅觅新办法。
“从无到有”的喊设想,运用本身的创意让已有的事物重获重生,也是设想的一种。
出于猎奇,我问了他一些问题。
1、寡所周知,您是一个加拿大出生的日本人,那么在您的设想行为中,日本传统文化,包罗已经被世界潮水标签化了的zen那个概念,对您而言意味着什么?
【あなたはカナダ身世の日本人として知られていますが、あなたのデザインにおいて、いわゆる「日本の伝統文化」や、世界的に受け进れられている「禅(ZEN)」という概念は、あなたにとって何を意味しているでしょうか?】
>海外で育った自分にとっては、通俗の日本人が「通俗」だと思うことを「面白い」と捉えることができるのかもしれない、と常々思っています。また違う角度から物事を見る習慣がデザインをする上でも役に立っていると思います。
——做为在海外长大的我,经常认为本身似乎能从一般日本人认为“通俗”的工具中捕获到“有趣”。从差别的角度对待事物的习惯,在设想过程中也长短常有搀扶帮助的。
【今回ZENSとの提携は初めての中国ブランドとの提携として、文化や芸術などコンセプト面の共鳴はなにかありますか?】
>デザイナーだけでは良い做品は出来ないと考えています。より良いものを目指していくという根幹の部门をはじめ、共鳴していることは多々あったと思います。
——单靠设想师是做不出好做品的。从逃求更好的产物那一底子目标动身,过程中两边确实产生了诸多共喊。
【今回のブースデザインは「雑貨の村」を通して、人々の「家」を表現していますが、これをもって世間にどのような「家」の概念を伝えるつもりでしょうか?】
>私たちは普段から「家→家具→雑貨」という異なるスケールの狭間に身を置いて生活しています。
「家」は中に进って使い、「家具」は座ったり、モノを进れたりして使います。
そして、「雑貨」は手に取ることで機能します。
これらの3者は絶妙なバランスで互いを補完し合うことで生活空間を成立させていますが、
「雑貨のみ」を展现する空間を設計するにあたり、このバランスを緩やかに崩すことを考えています。
まずは、いくつかの「家」を「家具」のようなスケールに落とし込み、その「家」の中
に「雑貨」を設置し、窓からのぞき込む構成にすることで、「家」と「雑貨」という2者
のみの関係性が生まれ、おのずと「雑貨」の存在が浮かび上がることを目指しました。
結果的に、小さな「村」を思わせるような不思議なスケールのブースと、
そこに様々な雑貨がまるで「村人たち」のように住んでいるような状況が生まれたました。
——我们日常平凡就置身于“家→家具→器物”那一差别体量的狭小空间里,生活着。
我们翻开家的体例是“进来”;翻开家具的体例是就是“坐”和“放工具”等等;翻开器物的体例是“起拿、放下”等等。
那三类器物凡是通过平衡达成互补。但是此次,做为展现“仅有器物”的空间,我测验考试往平静地突破那个平衡。
我们预备了一些“家具”般规模大小的“家”,在里边放进“妙物”,从窗口往内窥视的构成,就酿成了“家”和“妙物”两者的关系,“妙物”的存在感就会跃然凸显。
成果,就构成了在小“村子”里,各类各样的妙物就像“村民”一样过日子的场景。
4、在您心目中,能否有一个抱负中的时代或场景,能够成为你梦中的,“渡过一天”的所在呢?
【あなたには、夢見たように素晴らしい「一日を過ごしたなあ」というような時刻や場面はあるのでしょうか?】
>毎日、仕事をするか、寝ているか、という生活をしています。それはデザインをしているか、していないか、ということでもあります。でもそれは私にとってはつらいことではなく、本当に楽しいと思っていることなので、そのように過ごせた日は素晴らしい一日だと考えています。
——我天天要么在工做、要么在睡眠,日复一日。换言之,要么在做设想、要么没在做设想。对我而言那不是痛苦,而是乐趣。如许的日子对我来说就是最棒的日子。
5、能否能够如许回纳您的设想哲学:用西方贸易逻辑来运做设想行为,而又用日本的风气来构造细节与风气?
>意識したことはありませんが、そのように見えるでしょうか。そのモノ自体を見るのではなく、モノのスキマを見る、という点では「間」や「余白」といった日本的な感性、日本人ならではの世界観はあるのかもしれない、と考えています。
——我没有特意往回纳,也许看上往是如许的。我认为,看看事物的间隙比看看事物自己更重要,那也许是日本人特有的世界看和日本式感性,就是重视间隙和留白。
多出来的一些话:
那,简单来说,只要看看那张图就大白了。
艺术设想是能够用在生活里的,能够让你觉得生活是另一种觉得的——多好?
佐藤大教师的上述展品,稍后在北京侨福芳草地和上海衡山和集也会展售。
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